人生 喜怒哀楽

悲喜交々 伝えよう すべてを

草津市伝説『弁天池とおつゆの悲恋』

その昔、元禄五年(1692)の秋。
近江路は、今、取り入れの真最中であった。ここ野路村の、玉川にほど遠からぬ所に、九右衛門という小さな一軒の百姓家があった。
その家に、玉川の白萩にも似た清楚な美しい娘がいた。その名をつゆと言う。
歳は十七、番茶も出はな
      おつゆ可愛いや、顔見たや。
村の若い衆は、おつゆを見かけると、こう言ってはやし立て、寄るとさわると彼女の話。我も我もと話かけるが、肝心のおつゆは柳に風と受け流し、いつもするりとはぐらかしていた。
今日はおつゆは田圃から、どっさり籾を荷車に積んで、父の九右衛門と二人で引いて帰って来た。暮れるに早い秋の日が、もう比良の山頂を茜に染めながら沈もうとする夕刻の事であった。その荷車が家の前まで来て梶を急に左に切った。その時である。九右衛門はその梶棒に『がくっー』と衝撃を感じ、思わず手を離してしまった。荷車の籾は音を立てて路上に流れた。
「あっ、痛っー、うーん。」
声とともに一人の旅人が荷物とともに埃っぽい街道に転がった。
荷物の後を走っていた旅人に気付かず急に方向を変えた為、その人はもろに荷車にぶつかったのである。
「お、おけがは?…………」
思わず駆け寄ったおつゆの眼に、旅人の膝小僧の血が痛々しく飛び込んで来た。
彼女は腰の手拭いを手早くその白い歯で噛むと、音を立てて引き裂き、手早く血止めの包帯をしていった。九右衛門は側でただおろおろするばかり………。
「す、すみまへん。痛おすやろなあ……」
覗き込むおつゆの眼に、その人はまだ二十歳そこそこの若者に見えた。
「ご、ご書状箱………」
若い飛脚は歯を食いしばり痛みをこらえながらも、唸る様にそういって、油紙に巻いた書状箱に近付こうともがいた。
「これで御座いますか……」
おつゆがそれに手をかけるとハラリと油紙が落ちて、漆塗りの上に鮮やかな金色の家紋が浮かんで見えた。一瞬彼女の手が小刻みに震え出した。その家紋こそ紛れもなく、丸に立葵の紋所、御当地御殿様、本多家の御家紋であった。
膳所様のお使い………」
思わず口をついて出るおつゆの言葉に、九右衛門の顔からは血の気が引いていった。
藩の重要書状の入った御書状箱を例え故意ではないにしても路上に転がしたのである。万一表沙汰になれば『百姓のぶんざいで……』ということで即刻、打首獄門、まず死罰は免れないであろう。父娘の脳裡に一瞬、恐怖の稲妻が走り、それが全身を硬直させていた。
この様子を先ほどから並木の松に隠れてじっと冷たい眼で眺めている者があった。庄太という若者である。
「これぁ、どえらい事をやらかしたもんやなぁ、九右衛門はん。ありゃ……これはお殿様のお文箱やないけー」
彼はことさらに仰天した様子を見せながら、九右衛門の肩をぽんと叩くと、その耳元にそっと囁いた。
「魚心あれば水心。なあわかているやろ………おつゆちゃんのことや……。」
それだけ言うと、天秤棒かついで松並木の彼方へと消えて行った。
今の九右衛門はそれどころではなかった。若い飛脚を抱きかかえるようにして、家に招じ入れると、二人は改めて土下座して謝罪するのだった。
「まあまあ、その手を挙げとくれやす、誰もやろうとしてやったことじゃないし、できてしもうた事は仕様がおへん。それより何より御書状箱の傷が思うたより小さく、わしの傷もこの分ならたいした事はなさそうや、大体傷痛みせいへん性質どすので……後の事はこのわしにまかしとくれやす。つまり今日の事はこのわしが勝手に石につまずき転んだ。……こういう事にしときまひょ。後の事はなあにも心配する事いりまへんし……。」
若い飛脚はどうなることか? と気を揉む二人に、安心するようこう言うと、止める親子の手を振り切って、名前も告げずに逃げる様に夕闇迫る街道を、ビッコを引き引き御書状箱を肩に勢多の方へ消えて行った。
二人はその後姿が松並木の彼方へ消え去っても、祈るような心でいつまでも、その場を去るのを忘れていた。飛脚が消えたその後には、秋風が嵐のように松の枝を鳴らし、中天高く雁の群れが中秋の月に照らされて、美しい曲線を描いて渡って行った。
それからのおつゆは、来る日も来る日も街道を通る人に眼をやっていた。時折り飛ぶように走る飛脚姿を見ると、手にした物も投げるようにして街道に向かって走っていった。
「もしやあの人では?」
と思う心と
「もう一度会って、あの時のお礼を……」
と思う心がいつしか
「会いたい、一眼でええからお会いしたい」
そう思う心に変わっていた。それは庄太があの日の事をネタにして、毎日の様に
「嫁にくれ、一緒にさせろ」
と執拗に迫って来て、それが一層おつゆの心を燃え立たせるのだった。
今年も玉川の白い萩が、その可憐な小さな花を咲かせ、忙しい秋の取り入れを迎えようとしていた。そうしたある日、おつゆはもう半ば諦めかけていたその眼に、たくましく日焼けした眉毛の凛しいあの夢にまで見た若い飛脚が、その足取りも軽くお茶場を過ぎ、こちらに向かって書状箱を肩に、走って来るではないか………
おつゆは自分の胸が早鐘の様に高鳴るのを覚えた。
「あ、あんたはぁーん」
もう恥じも外聞もなくそう叫んだつもりだった。しかしそれが喉に張り付いて声にならず、口も喉もからからに渇いていた。次の瞬間、おつゆは狂った様に、砂塵を蹴って走っていた。
若い飛脚はその足音に気付きそっと後ろを振り返りその足を止めた。